熟女の繰言

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    伊藤博文公のふるさと ~ 山口県光市めぐり ~


    《 旧伊藤博文邸 》

    博文が68歳の時、祖先が亡くなって300年の記念の会を開くために、自らが設計して立てたものです。しかしながら、完成目前の明治42年10月、彼はハルビン駅で狙撃され、故郷に戻ることなく生涯を終えました。

    この建物は、外観も、部屋の内装も、日本的なものと西洋的なものが調和するよう工夫されています。


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    《 伊藤博文銅像 》

    建物の窓から、伊藤博文銅像が見えます(2つ上の写真)。これは、博文が見たかったはずの旧邸を、末永く見守ってもらうために、平成16年3月に建立されたものです。

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    《 伊藤博文公の生家 》

    茅葺きの生家は、平成3年に現在の位置に復元され、産湯に使ったとされる井戸とともに、保存されています。

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    《 伊藤公資料館 》   (一番上の写真左側)

    レンガ造りのモダンな外観です。家具や衣類などの遺品と共に、能筆家であったことを偲ばせる漢詩などの書道作品や手紙も展示されています。なぜか安倍現首相の書道作品も一点、展示されていました。

    中でも印象的だったのは、シアターホールでの「望郷」をテーマにした映像です。最後となった中国視察の旅に出発する時点から始まり、凶弾に倒れる時までを辿る、車中の移動時間の合間に、彼の生い立ちから立身出世の道程を織り込んだ、感動的な映像でした。

    それに付加された、韓国皇太子を日本に迎えた際の海辺でのドキュメント映像は、韓国人に是非見てほしいものでした。そうそうたる立派な出で立ちの大人達が十数名同行し、幼い皇太子と一緒になって、打ち寄せる波と戯れる、のどかな情景です。



    ★ 伊藤博文公についての記事は、

    伊藤博文公のふるさと ~ 光市めぐり ~ の後に

    http://ryokuhu77.blog.fc2.com/blog-entry-29.html

    をお読みください。



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    [ 2015年01月24日 ] カテゴリ:旅行 | TB(0) | CM(-)

    伊藤博文公のふるさと ~ 光市めぐり ~ の後に


    伊藤公(公爵の称号を受けたことからこう呼ばれる)には、かつて日常生活のなかでとても身近な「千円札の顔」として、慣れ親しんできました。ああそれなのに、人々はこの人物についていったいどれだけのことを知っているでしょうか。

    わが国の初代総理大臣というだけでも、もっと万人から尊重されて然るべきだと思います。44歳の若さで内閣総理大臣に就任し、4回にわたって務め、立憲政体の樹立や明治憲法の制定に尽力します。けれども、晩年、初代韓国統監として、日本帝国主義による韓国併合をシンボライズする存在となってしまったこと、あまつさえテロリストによって暗殺されたということが、彼の功績に影を落としてしまったのではないでしょうか。

    この冬に、光市に行き、伊藤公記念公園を見学する機会を持ちました。折しも「花燃ゆ」という大河ドラマが始まり、いっそう当時のことに対する関心が高まりました。そこで、家の書棚にあった『伊藤博文 知の政治家』(瀧井一博著 中公新書2010年4月 初版)をひもといてみました。以下、印象に残った部分を抜粋します。


     ~ はしがき ~

    本書では政治家伊藤博文の隠された思想を掘り起こすキーワードとして、次の3つの視角を設定したい。「文明」「立憲国家」「国民政治」の三者である。

    彼にとって、立憲国家とは国民中心の政治体制を帰結すべきものであり、そこでの国民は教育を受けた文明の民として知の担い手であることを要した。


     ~「博文」の誕生 ~

    伊藤博文は、1841年、現在の山口県光市大和町において生まれた。生家は農家だったが、生計のため萩に出ていた父が、伊藤家に養子に迎えられ(家族ぐるみ)、侍の末席に連ねられた。

    松蔭が浦賀停泊中のペリーの艦船に乗り込んで洋行を願ったように、そして長州藩首脳部から要請され、五名の若者が国禁を犯してイギリスへと派遣されたことからもうかがえるように、攘夷思想家の少なからぬ者は闇雲に洋夷排撃を唱えていたのではなく、敵情を知悉して彼らと伍する道を模索していたのだった。


     ~ 伊藤の世界観 ~

    この世の存在は流転常無きものであり、政治もそれに合わせて絶えず変容していかなければならないというものである。その変容の行方に彼が見据えていたのが国民政治であり、幕閥中心の超然主義からの脱却は、早晩実現されるべきものとして憲法成立時から彼の脳裏にあったと考えられるのである。

    「言論の自由を愛し、議事の公開を愛し、若しくは自家に反対の意見を寛容するの精神」(『全集』①p183)


    維新以後、わが国は国を開き、西洋の文物を輸入して今日の文明を築き、その結果、立憲政体を立てるに至った。しかし、だからといって、世上の政治家が欧米の政党内閣に心酔して今現在の内閣を倒そうなどと唱えているのは嘆かわしい限りである。

    政党内閣は不可である。それは英国の歴史に照らしても明らかであり、心ある政治家ならば誰も政党内閣に与しなどしない。今日の政党は幼稚で、その言論は無責任である。結局のところ、「国民は共同団結して漸次に国力の充実を図り、国権の恢復(かいふく)を企てなければならない。

    だが、既述のように政党政治を伊藤は歴史的趨勢と把握していた。かくして、彼にとっての政治課題は、次のようなものとなる。それは、政党政治の漸次的な育成を通じて国民の政治参加を推進し、国民政治と立憲体制の融合を図ること、すなわち国民国家としての、宥和と協調の政治体制を築くことである。


     ~ 政友会に求めたもの ~

    「文明の民」とは政治への関心を失わない存在でもある。「己の業務を本分とし、一方に於いては政治の注意に怠らぬ」国民である。それというのも、各々の生業にとっての利害は、国家の利害につながるものであり、その意味ですべての事業は政治と関係するといえるからである。





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      ☆ その他の写真は下記をご覧ください。

            http://satuki8989.blog.fc2.com/blog-entry-510.html
    [ 2015年01月18日 ] カテゴリ:歴史 | TB(-) | CM(0)

    マッサンのふるさと ~~~ 竹原めぐり ~~~


    昨年の秋、広島県の竹原を訪れた時の写真です。


    《 マッサンのモデル 竹鶴正孝さんの実家 》

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    左端のポスターに注目!


    《 竹原市歴史民俗資料館 》

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    《 エデンの海 》 

    広島県竹原市に ある、忠海高校。ここで教鞭を執った経験をもとに 広島市出身の作家 若杉慧(わかすぎ けい)さんが執筆した小説 『エデンの海』は、3度にわたって映画化されました。

    忠海高校は、ニッカウヰスキー創業者 竹鶴正孝氏、元内閣総理大臣 池田勇人氏、日本画家 平山郁夫氏、脚本家 高橋玄洋氏 など多くの著名人を輩出しました。

    30 - コピー


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    [ 2015年01月13日 ] カテゴリ:旅行 | TB(0) | CM(-)
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